「うつ病、過去 -今、振り返って-」①


Aya

経緯

 今回、このページを起こすにあたり、私自身、迷いがありました。何故なら、今の私が過去を振り返り、自分を見つめ直し、それが私の回復に繋がるのか、はたまた、闇に戻ってしまうのか、不安だったからです。

しかし、病気になってから過去を切り捨てる事ばかりを考え、消えたい一心で自分がして来た事をもう一度見直して、今現在の私がどう感じるのか。

又、同じ病気で苦しんでいる皆さんに、私がして来た事で、「良かったこと」「後悔している事」を伝えることにより、少しでも、「これはやってみよう」「これは止めておこう」と参考になればと思い、今、私が私自身の「過去を振り返る勇気」を持つ決意をしたのです。

皆さまには、共感して頂ける事も、反感を買ってしまうこともあると予測いたします。が、どうかお付き合い下さいませ。

人格の形成

私のブログを購読して頂いている方はだいたいの私の育った環境や、性格をもうご存知かもしれませんが、ここでは、もう少し掘り下げてお伝えして行きたいと思います。

私は比較的厳格な家庭で育ちました。我慢することが当たり前でした。我慢している自分にも気付いていませんでした。

人に指を刺される事をしてはならない。人の立場に立って考え、言動、行動する。基本はそれだったのですが、今から思うと親が周りの目を1番意識していたのだと思います。自分達が、人から娘の私の事を「良い育て方をなさってますねえと言われたいというのが根底に存在していたのだと思います。

私は知らない間に大人の顔色を伺う子になってしまっていたのです。(お陰でいまでも、相手が私の事をどう思っているか、敏感に察知できますが)

次第にポーカーフェイスで何を考えてるかわからない。子供らしくない。可愛げのない子。と思われる様になっていった様に記憶しています。

小学校の担任からの暴力

殴る蹴るの暴行

今から思うとポーカーフェイスで子供らしくない私に、担任の先生は不満をぶつけていたのかもしれません。「この生徒は殴ったら、蹴ったらどういう反応をするのか」と、試していたのかもしれませんが、やっぱり結局は単に自分のストレスの吐け口に私を選んでいたのだと思います。何故なら私にはどうして殴られているのか理由がわからなかったからです。

ある時は先生自身が履いているスリッパで殴られました。ある時は体育の時間に、サッカー⚽️で、私を目掛けて思い切りボールを蹴られ、保健室に運ばれました。ある時は、、、言いだすとキリがありません。

私が印象に残っているのは、先生が私のいないところで、クラスメート達に「一度Ayaの両親と話さなきゃいかんなぁ」と、言っていたそうです。私はそれをクラスメートから聞いて酷く怯えた事が忘れられません。教師として、いえ、人としてしてはならない事だと思いませんか??

しかし、私は先生に暴力を受けている事を両親には話せませんでした。何故かというと

  1. 何故暴力を受けたのか理由がわからない為、説明ができない。
  2. 先生に叱られたという事についてを、親から叱られると思う
  3. 両親が、何もしてくれないであろうという予想がついた。

その時は、その体験が後々になって大きく私の病気に関わるとは勿論、発想にもありませんでした。

学生時代

中学校、高校は女子校でした。しかし、単独行動が多く、どこのグループにもぞくしていませんでした。なので、自由にグループを組む授業などが苦痛で、どこにいれてもらえばいいのか、ポーカーフェイスながらも、ビクビクしていました。

中学時代は勉強が好きだったので(笑)成績は良く、親は自慢だったと思います。

大学は共学の4年生クラシック音楽の大学に進学しました。それも、両親の意向でした。しかし、大学時代は楽しく、やっと自分が、一体何が好きで何が嫌なのかを自覚できるようになりました。

就職

政府系銀行に就職が決まり、社会に出るという事に全く何も感じていませんでした。何がどう変わるのかも何も考えていませんでした。

が、待っていたのは、私が今まで避けに避けてきた、団体仲間意識の塊りでした。少しでも、はみ出た事をすると直ぐに変な目で見られました。

私は日本の組織社会に疑問を持ちつつも配属された営業部で、仕事だけを一生懸命こなしました。

しかし、時代背景が悪かったのです。その頃多くの都銀や地銀が合併し、生き残り勝戦が始まっていました。

わたしが働いていた政府系銀行も、不良債権の塊で、遂には破綻したのです。

どうしようか悩んだ結果、私は夢だった海外生活をする事に決めましたそれを両親に伝えた時、「だったら今すぐこの家を出て行け!」と言われ、「ああ、この人たちはまだ変わっていない」と感じたのが印象に残っています。

それでも私は1人で調べ、用意し、最初は1年間のつもりで旅立ちました。そうです。初めて私は両親に逆らったのです。

海外生活

悩んだ末、留学先はロンドンに決めました。元々、歴史や文化、美しい物が大好きだったので、ヨーロッパ以外は頭にありませんでした。そして多国籍の人達が集まるロンドンを選んだのです。

初めての単身での長期海外滞在に関しては何の不安もありませんでした。それよりワクワク感がグーンと優っていたのです❣️そして、ロンドンは、、、『自由』でした。どんな服を着ても何をしても「ああ、あの人はあんなだから」で終わりです。

仕事にしてもそうです。イスラム教の方達は業務中であろうと、お祈りの時間は仕事を抜けて行きます。勿論良く思われてはいませんが、みんなもう諦めているのです。

変な団体意識もありません。時間がきたらサッと帰ります。on/off がハッキリしているのです。私にとってはそれが普通だと感じました。

ただ、不便さは否めませんでした。私は初めて「外から見た日本はなんて良い国なのだろう」と改めて感じました。どこにでも、何でもある。コンビニエンスストアもある。時間には常に正確。故障した物を修理に出してもちゃんと直る。

ヨーロッパは違います。ドイツ以外、時間なんてあって、無い物。日本の感覚で、あると思って行った店に欲しいものは無い。出来ないことに対しての言い訳が「はあ??だから?」となるが、諦めざるを得ない(笑)

気が付くと4年半が過ぎていました。ヨーロピアンの友達もたくさん出来、英語にもそこそこの上達を感じだ私は「日本へ帰ってこの経験を必ずいかす!」と決意し、帰国しました。

日本社会への復帰

就職先は既に決めてから帰国しました。帰国後1ヶ月から日本で、日本の会社で、働き始めたのです。

そして感じた事は、、、以前にも増しての日本の組織社会への、強い疑問と、嫌悪でした。そう、私は私自身が、この日本社会に馴染めないのだ。と感じ始めたのです。

しかし、それはそれ、勿論仕事はきちんとこなしました。

でも、私の見た目と中身とのギャップで、認めて貰えるまでかなりの時間を要しました。それも限りある人達にだけです。人を見た目で判断し、先ず短所を探す。それならまだマシです。その人の中身を見ようとしている姿勢があるのだから。人を見た目だけで判断して、その自分の判断を変えようとしない日本人のなんと多い事か‼️

こんなにもハイテクノロジーな国なのに人は閉鎖的。日本人の習性なのでしょうか。

それでも私は働き続け、バンコクにも2年間駐在しましたが、そこでは、仕事がまともに出来なさ過ぎて移動届けを出したのですが、認められず、退職しました。

そしてその頃から小学校時代の暴力のフラッシュバックが起こるようになったのです。

更に元々あったPMDDも酷くなってきている事に気付き始めていました。。。。


今回は、私が酷い鬱病に至るまでの経緯を書かせて頂きました。

少し退屈なページになってしまいましたが、次回からは本格的に「うつ病」になってから、私の思いや、行動に起こした事について、詳細にお伝えしたいと思います。

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